倭国はなぜ生きづらいのか?生きやすくする方法

LIFE


こんにちは、のりせんです。

皆さんは日々生活していて、なんか窮屈だなあって感じることってありませんか?

「まわりの皆に合わせて遠慮しているな」とか、「人の目が気になって自分が本当にやりたいと思っていることができてないな」とか感じていませんか?

のりせんは、東南アジアで数年間生活した経験があるのですが、特に倭国に帰ってきてから、倭国がすごく窮屈に感じています。

なぜか生きづらく感じているのです。

東南アジアでは感じなかった生きづらさというものが、倭国ではとてもひしひしと感じるのです。

そこで、この「生きづらい」ということが、東南アジアでは感じなかったのに、なぜ倭国では感じるのかを説明します。

倭国が「生きづらい」と感じる理由

倭国特有の過剰な「同調圧力」

これは、倭国に帰ってきてとても感じていたのですが、倭国は、周囲からすごく同じ行動をするよう求められているように感じます。

求められている、つまり圧力があります。

いわゆる「同調圧力」が強いということです。

最近の例でいえば、コロナウィルス感染防止としての「マスクの着用」です。

コロナが蔓延しだした当初の倭国は、マスクを外している人を見かけたら、その人が犯罪者でもあるかのようにすごいバッシングを受けていました。

なんで、マスクをしないのか?

周りに感染させたらどうするのか?

お年寄りに感染させて命に危険を及ぼすようなことになったらどうするのか?

無責任な行動をするな。

マスクをしていなかったというだけで、A級戦犯的な犯罪者扱いです。

「同調」とは、周囲の意見に合わせて自分の意見を変えてしまうこと。

この同調を利用して、少数意見を持つ人を暗黙のうちに抑えるということ。

自分の意見を、周囲の意見に合わせて変えてしまわなくてはならないことほど、生きづらいことはありません。

例えば、このマスク着用については、時と場合で、周囲に迷惑かけない状況であれば、外して過ごしても良いと思っています。感染しないという状況であれば。

つまり、物事の本質をよく考えて判断すべきということです。

倭国では、この同調圧力が必要以上に強いということです。

世間の常識(倭国の常識)の強要

倭国を離れ、東南アジアで生活して判ったのですが、倭国では「当たり前」と思われているものが、海外では「当たり前でない」ことのほうが多いということです。

一般的に、倭国では「常識」と思われていることが、海外では「常識ではない」のです。

これらの具体的な例を列挙してみます。

倭国で常識と思われているが、海外では常識でないこと

・レストランの店員は、みんな丁寧

・お客様は神様

・道路では歩いている人が優先

・水道の水が飲める

・時間通りに電車が来る

・列は割り込まないできちんと並ぶ

・映画館では静かにする

・周りに迷惑をかけない

・ごみは道路や床に捨てない、散らかさない

これらは、倭国では「当たり前、常識」だと思われていることだと思います。

ところが、倭国を一歩飛び出した海外では、これらが「全く当たり前ではない」のです。

つまり、海外から見ると、「倭国の常識は非常識」なのです。

だから、あまり、倭国の常識に縛られ過ぎて、この常識から外れないように、生活しようとすると、とても窮屈になるのです。

気にしすぎる周囲の目(恥の文化)

倭国は「恥の文化」と言われています。

普段の生活においても、「恥ずかしくない行動」をすることが求められています。

この「恥ずかしい」、「恥ずかしくない」というのは、「他人の目」が基準となっています。

つまり、「他人の目」から見ての判断が、その人の行動、特に倭国人の行動を決定するわけです。

倭国人は、「周囲からどう見られているか」をいつも気にしています。

そのことが原因で、極度に控えな感じになり、おとなしい感じになり、遠慮してしまうことになります。

要するに、他人の目を気にしすぎるあまり、「自分を抑える」ということです。

自分を必要以上に抑えてしまうと、窮屈になります。

ルール・規制の多さ

倭国は、ルールや規制が多すぎる傾向にあります。

ひとつ大きな事件や不祥事、不備が発生すると、これから、このことが再度発生しないように、ルールを決めることになります。

細かな基準値を設けてルールを決めます。

これをしてはいけないよ、この基準を守らないといけないよと。

倭国は、問題が起こったとき、それをよくするための「改善」がとても得意です。

海外では考えられないほど、改善活動が上手な国です。

問題が起こると、それが将来起こらないように細かな基準値を設けて規制します。

そうすると、してはいけないことがどんどん増えてきます。

どんどん増えてくると、守らなくてはいけないことが増えていって、行動が制限されます。

また、してはいけないことをしてしまうと罰則があります。

決められたことを違反すると罰則があるのです。

そうすると、自由に行動できることが減ってきます。

この自由度が減ってくると、窮屈になるのです。

排除される個性(皆一緒)

倭国は個性を尊重するような仕組みの構築が不十分です。未完成です。

そのことの顕著な例が「学校教育」です。

倭国の教育は、小学校から中学校の多感な時期に、皆同じ教科書で、同じ内容の学校教育を受けます。

これは、倭国の学校教育法で決まっている義務です。

勉強が得意な人も、得意でない人も同じ内容の教育を受けます。

勉強ができる人の中には、算数が得意な人も、絵を書くことが得意な人もいるのです。

でも、皆同じ教科書で、同じ内容の教育を受けるのです。

そもそも、人間というのは、皆同じではないのです。人間はバラバラなのです。

人間一人ひとりは、「考え」も、「得意なこと」も、「好きなこと」も、「嫌いなこと」も違うのです。

それが「個性」です。

倭国は、その個性を生かすような教育を実行する仕組みにはなっていません。

だから、違う個性を持っている人間が、皆と一緒の行動を強要されるような仕組みなので、とても窮屈に感じるのです。

間違ったことへの強烈なバッシング

倭国人は「正しいおこない、正しいこと」は、すぐに認めます。すごく美化します。

一方、「間違ったこと」に対しては極度に嫌います。嫌悪を示します。

特に、「間違ったこと」に対しては、徹底的にたたきます。

特にメディア、SNSが良い例です。

テレビのニュースでは、とても悪いことのような印象を持たせた構成で映像を流します。

週刊誌では、必ずその物事が悪いことのような印象を持たせる記事に仕上げます。

また、世間でいわゆる「間違ったこと」と判断されたことに対しては、強く謝罪を求めます。そして、必ず責任を負わされます。

それを映像して、記事としてニュースで世間に流します。これは悪いことだと。。

そうすると、世間は、こんな悪いことや、間違ったことは絶対してはいけないと思ってしまいます。

悪いことや間違ったことをしたら、あんなふうに誤って責任を負わされると思ってしまいます。

そうすると、生活がとても慎重になります。窮屈になってしまうのです。

さらに、一度、間違ったことしたり、謝罪をしたりすると、その後に、どんなに正しいことを行っても、過去の間違ったことを引っ張り出してきて、思い出させ「昔悪いことをした」とほじくり返します。

世間は、過去の過ちを決して許さないのです。

一度失敗すると、許してもらえないのです。

このことが自由に生きづらくしている理由です。

のりせんは、このようなメディアのニュースをなるべく見ないようにしています。

なぜならすごく不愉快になるからです。

気持ちが、なにか悪い方向に侵されるように感じるからです。

また、ニュースを見るときは、できるだけニュースで流れる「事実」と「解釈」を切り離すようにしています。

「事実」だけを見るようにしています。

そうして、自分を守るようにしています。

単純な判断

問題が起こったときには、それが正しいのか間違っているのか、また良いことなのか悪いことなのか、白なのか黒なのか、必ず判断を求める傾向にあります。

でも、あらゆる物事は、たった2つの両極で判断することはとても難しいと思っています。

むしろ、2つの両極の間であることのほうが多いのです。

白か黒かでいうと、「グレー」だということです。

その「グレー」も、白に近いグレーであったり、限りなく黒に近いグレーであったりと様々なのです。

物事は、複雑です。単純に、判断はできないのです。

それは、倭国を離れて海外で生活するとよくわかります。

倭国の常識が、間違っていることが多いのです。

求められる完璧さ

倭国人はまじめな民族です。

何事も曖昧にすることができません。

つまり、何事も100%の完璧を求める傾向があります。

「この程度で良しとしよう」と考えて、「半分ぐらいの出来で十分」といって、終わらないのです。

完璧なものを求めることは、とても、時間もお金もかかります。体力もいります。

だから、なぜか倭国人は疲れているのです。窮屈なのです。

行き過ぎた義務感

倭国人は、「決めたこと、決められたこと」は、「必ず守らなくてはならない」という考えの傾向が強すぎるようです。

政府が決めたことだから、会社が決めたことだから、学校が決めたことだからといって、決められたことを必ず守ることを強要します。

その決めたことの本来の目的を十分理解して強要するのであればいいのですが、決めたこと、決められたことが独り歩きして、「守ることが目的」となってしまう傾向にあります。

「決めたことは絶対守らなくてはならない」という義務感が非常に強くなる傾向にあります。

「そもそも・・・」と考えることがとても大切です。

しかし、そのことを十分考えないで、決めたことのみをクローズアップして、決めごとを守らない人を徹底的にバッシングします。窮屈です。

生きやすくするための方法

現代の倭国において、生活するのがなぜ生きにくいと感じるのか、窮屈だと感じるのかがわかっていただけたのではないでしょうか。

そうすると、倭国で生活している限り、日ごろ感じるその窮屈さは、解消されることはないのかと思うかもしれません。

でも、あきらめる必要はありません。

倭国で生活しながら、その窮屈さを少しでも解消できて、生きやすくする方法はあります。

決められたルールに疑問を持つ

倭国は、守らないといけないルールが多いのですが、そのルールがどのような目的で決められたのかをよく理解しておくことが大切です。

ルールだけが独り歩きして、「ルールを守ることが目的化」してしまうことがよくあります。

「常時マスク着用」、「4人より多くでの会食禁止」など、なぜこのようなルールに決めたのか、決めた背景・目的をよく考えることが必要です。

そして、その決められたルールに、「なぜなのか?」と疑問を持つことです。

常に、自分の頭でよく考えて、行動することです。

そうすると物事の本質がよくわかるようになって、やらされ感がなくなり、生きやすくなります。

周囲に合わせず自分の考えに従う

周りがやっているからという理由で、何も考えず、周りに合わせて行動すると窮屈になります。

周りは参考する程度にして、自分がどうなのかを常に考えることが大切です。

自分軸を持つということです。

そして、自分の考えに従い、行動することです。

そうすると、生きやすくなります。

自分のやりたいことを優先する


周りに合わせて、自分の気持ちを抑え込んで、周りと一緒の行動をすることが多くなると、生きづらくなります。

だから、自分の気持ちを抑え込まないことが大切です。

自分がこうしたい、ああしたいという気持ちを優先することが大切です。

自分の欲求を素直に見つめて、自分のしたい、やりたいことを素直に実行することで、生きやすくなります。

深刻にならずゆるく考える

やはり、倭国人はまじめです。

毎日をストイックに、苦労しながら生活することがとても美しいことと思っています。

生きるのはとても大変なことだと思っています。

努力しないと食べていけないと思っています。

将来のことをとても心配しています。

でも、現在の倭国で、食べていけなくなることはないのです。

どう生活しても、生きていけるのです。

だから、何事もゆるく考えて今を生きることです。

深刻にならないことです。

東南アジアでは、今を楽しむことをとても大切にします。

そして、みんな楽しそうに生きています。

だから、今を楽しむこと、あまり心配しすぎないこと、ゆるく考えることが大切です。

まとめ

倭国はなぜ生きづらいのか、そして、生きづらい倭国での生活を少しでも生きやすくする方法を説明しました。

要するに、

・自分の頭でよく考えて

・周りに合わせず

・自分で判断して

・自分の気持ちに素直に生きていくこと

そうすれば、必ず倭国でも生きやすくなってくるでしょう。

日々の生活を気持ちよく過ごせるように。   それでは。

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